日常の再稼働となる日。世間のカレンダーが動き始めた。自分の能力を存分に発揮できる相手とそうでない相手がいる。
これは何によって決まるのだろう、と改めて考えさせられる場面があった。わたしと相手の双方に要因がある。あるいはわたしと相手の間に。
わたしはきっと相手の顔色を伺いすぎるし、わたしと相手の間には「関係の質」が出来上がっていないのだ。
とすれば、それはわたしの在り方で決定される、などと考えたりする。第三者を価値基準とするのではなく、自分の価値基準に立ち返ろう。
卒論の指導を行う助教授である「発声練習」という方の「価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない」という2009年のブログ記事を思い出し、辿ってみる。主たる部分は次だ。
「表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義だ。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。
だから、君がもし表現者になりたいのだとしたら、精神的な背骨を手に入れる必要がある。それはどんなものでも良い。私が君をどう思うかではなく、君が君をどう思うかそれが重要だ。君は私じゃないし、私は君じゃない。究極的には、私が君をどう思おうが君はそれに左右される筋合いはない。」
卒論を書く学生に向けた言葉なのだが、わたしにも響いてしまう。
夜、長田弘「1日の終わりに」(2000)を読み返す。大切な本は何度でも。
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