一年に一度、あるかないかの面接をした。
履歴書と適性検査の結果を読み、質問をしなければならなかった。その人を知るために。
しかしこれでいいのだろうか、と毎回自問する。
そしてわたしはこうも思ったのだ。観察が現象を変化させるなら、そもそもなにかを知ることなどできるのか、と。
アン・マイクルズ「抱擁」(2025)
たったの20分で – 諸情報を読み、質問をしたとて – どうやってその人のことを知ることができるのだろうか。それ以上に、わたしは人を見る目がない。人のことがわからない。
「悪い人じゃなさそうですね」
わたしはそんな言葉でなんとかその場をやり過ごしてしまう。そうとしか言いようがないから。
ふと自分のことを思い返す。わたしは人と対話をするとき、相手の話を聴き、それをしばしば要約して問い返すことがある。そうしたプロセスを経ることで、物事を、人を理解しようとする。
しかしその手順は、相手の話を聞いているようでいて、相手を自分の思考の枠の中に押し込めている。わかったつもりになって、理解は、遠ざかるばかりだ。
人は要約できない。してはならない。そんなふうに思う。そして理解とは一体何を意味する言葉なのだろう。さしあたっての了解に過ぎないのではないか。
*
時を重ね、行動を共にし、ようやくその人のことが、わかった気になることもある。でも結局、わかった気がするだけで、実は何もわかっていなかったという瞬間が訪れる時が来る。
そのことだけ、わかってる。
そのことしか、わからない。
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