20250225 | 些細なひとこと
ある人の、些細なひと言が、わたしの今日一日を染め上げてしまう。 同僚の一言が深く突き刺さり、わたしと、その仲間たちが積み上げてきた5年間を蔑ろにされた気持ちになってしまったのだ。その発言をした人も、協働者の1人のはずなのに。 なぜこんな気持ちになってしまうのだろう。 考えてみれば、私たちがあるプロジェクトで積み上げた5年の歳月を無駄だとは決して思わないし、思えない。確実に現実は動き、あらゆるものが変わった。その事実は存在する。私たちが重ねた時間は、確かに実を結んでいる。 つまり、ただ、ほんの少しだけ、寂しく、そして悲しくなってしまっただけなのだ。 なぜこんなにも心が騒ぐのだろう、と考えてみると「こう言ってほしかった」と望む、浅ましい自分の本音を見つけてしまった。その心のありようは、個々の感性を奪い、人を支配する類のもので、自分の醜さと出会い直すようなものだった。 きっと人に期待すること自体が、間違ってるのだと思う。人はままならぬ存在なのだ。人を人として尊重しあって生きていくためには、人とは「そういうもの」だとして引き受けるしかないのだ。その人を嫌うでもなく、世界を呪うでもなく、ただただ「そうである」と。 それは人、そして生きることの、ままならなさと、生きること。 わたしが感じる悲しさとは関係なしに存在するホモサピエンスの特性であり、宿命なのだ。 だけど、痛みがないわけじゃない。 そんなとき、わたしは次の一節を思い浮かべる。ほんの少しだけ気持ちが和らぐから。 “だがこうした胸の痛みこそ、僕の生が続いていることの、象徴ではあるまいか” ジャン=ドミニック・ボービー「潜水服は蝶の夢を見る」(1998) 夜、西尾勝彦「場末にて」(2023)を読む。本というものの存在にいつも助けられている。