embracing solitude

diary

I am one who takes small pleasure in a day in reading a book at the end of the day.

1日の終わりに本を読むことをささやかな喜びとして生きています。

  • 20260301 | ベランダ

    穏やかで静かな陽気。ベランダでひとり、思わず幸せを噛み締めてしまう。「なんて幸せなんだろう」と。こんな心持ちは久しぶりだと思う。ゆっくりと心休まる時間を過ごさせてもらった1日。 ストリングスから始まり、ゆったりとした四つ打ちトラックへ、ヌルッと移行していく瞬間が最高。

  • 20260228 | 友人たちとの定例会

    半年に一回の友人達との定例食事会。友人たちと8席のお店で貸切ランチ。いつも「半年先かぁ」と思いつつ、あっという間にやって来るその日。結婚を控えた友人もいて、とても楽しい会になった。ここのお蕎麦は一番、美味しいなぁ。 友人が、2次会として、「新宿西口 思い出横丁」へ連れて行ってくれる。初体験。短時間で、4軒をバランスよくハシゴする。 1.カブト 2.ささもと 新宿店 3.岐阜屋 4.焼肉大貫 が、わたしは4件目の注文前にギブアップ。途中で失礼させてもらう。早すぎる時間からのハシゴだったので、結果的にとても早く家に帰れた。

  • 20260227 | 違和感

    いろんな類の違和感に世の中は満ちている。私が感じる違和感のひとつは、粒感が揃っていないこと。 その例が桃太郎。この物語の中で整理がうまくできていないものがひとつある。桃太郎の仲間で唯一、鳥だけキジになっていること。 本来の形は、「動物」という大きなカテゴリーで揃えるべきところ、キジだけブレイクダウンされており、粒感がそろっていない。 わたしは、こういう違和感に躓いてしまい、他のことが頭に入ってこなくなってしまうのだ。 人に相談したら、民話ができたその当時、日本にいた犬と猿は限られていて、鳥だけが多様だったからではないか、と言われた。 確かにそうかもしれない。後世の体系的なものの見方を当てはめること自体、無理があるのかもしれないと痛感した。

  • 20260226 | ジンギスカンを食べる

    午前、仕事で六本木に向かうも電車が遅延し、約束の時間に遅れてしまった。遅刻したことに落ち込む。 夜は四谷三丁目に知人とジンギスカンを食べに行く。知人いわく、時々ラムを無性に食べたくなるらしい。 わたしは人生で2回目のジンギスカン。知人と店員さんにラムやジンギスカンについて教わりながら食べた。 楽しい夕食になった。 帰りの電車では、アン・マイクルズの本を読みながら、Corey Fuller「Seas Between」(2009)を聴く。 無限に聴くことができる。きっとどんな本にも合うだろう。読書を妨げず、さまざまな景色に溶け込む音。

  • 20250225 | 些細なひとこと

    ある人の、些細なひと言が、わたしの今日一日を染め上げてしまう。 同僚の一言が深く突き刺さり、わたしと、その仲間たちが積み上げてきた5年間を蔑ろにされた気持ちになってしまったのだ。その発言をした人も、協働者の1人のはずなのに。 なぜこんな気持ちになってしまうのだろう。 考えてみれば、私たちがあるプロジェクトで積み上げた5年の歳月を無駄だとは決して思わないし、思えない。確実に現実は動き、あらゆるものが変わった。その事実は存在する。私たちが重ねた時間は、確かに実を結んでいる。 つまり、ただ、ほんの少しだけ、寂しく、そして悲しくなってしまっただけなのだ。 なぜこんなにも心が騒ぐのだろう、と考えてみると「こう言ってほしかった」と望む、浅ましい自分の本音を見つけてしまった。その心のありようは、個々の感性を奪い、人を支配する類のもので、自分の醜さと出会い直すようなものだった。 きっと人に期待すること自体が、間違ってるのだと思う。人はままならぬ存在なのだ。人を人として尊重しあって生きていくためには、人とは「そういうもの」だとして引き受けるしかないのだ。その人を嫌うでもなく、世界を呪うでもなく、ただただ「そうである」と。 それは人、そして生きることの、ままならなさと、生きること。 わたしが感じる悲しさとは関係なしに存在するホモサピエンスの特性であり、宿命なのだ。 だけど、痛みがないわけじゃない。 そんなとき、わたしは次の一節を思い浮かべる。ほんの少しだけ気持ちが和らぐから。 “だがこうした胸の痛みこそ、僕の生が続いていることの、象徴ではあるまいか” ジャン=ドミニック・ボービー「潜水服は蝶の夢を見る」(1998) 夜、西尾勝彦「場末にて」(2023)を読む。本というものの存在にいつも助けられている。

  • 20260224 | 薄氷

    昼にメーラーを開いたところ、あるメールのタイトルに思わず「えっ!?」っと声を上げてしまった。驚きと焦りと共に、メールを開く。 人生には、これまで当たり前だった日常が、突如として別ものに様変わりしてしまうような、そういう瞬間がある。 それがわたしの知人に起こったのだった。 数本の電話と、しばしの内省を経たのち、最近、友人に勧められて少しずつ読みすすめていたオリバー・バークマン「限りある時間の使い方 人生は4000週間 あなたはどう使うか?」という本の一節を思い出す。 “そのニュースは、ある瞬間と別の瞬間のあいだにすっぽりと収まっている。そこに隙間があるとはまったく気づかないような、そんな隙間に。…それはまるで、新しい物理法則が私たちのために用意されたかのようだった。あらゆる法則と同じく絶対的でありながら、恐ろしくさりげない。それは認知の法則だ。その法則は告げる。「あなたはこの先、目にとまるものすべてを失うだろう」と。” オリバー・バークマン「限りある時間の使い方 人生は4000週間 あなたはどう使うか?」 知人と、その家族に起こったことを思うと胸が苦しい。 これまでに、「それ」が、わたしに起こってもおかしくなかったし、これからだって、「それ」は起こりうる。たまたま「それ」が今回わたしでなかっただけに過ぎないのだ。 来たるべき時のために、当たり前すぎる日常を、その幸運を、この薄氷を、噛み締めるように生きる自分でありたいと願った。

  • 20260223 | そのことだけ、そのことしか

    一年に一度、あるかないかの面接をした。 履歴書と適性検査の結果を読み、質問をしなければならなかった。その人を知るために。 しかしこれでいいのだろうか、と毎回自問する。 そしてわたしはこうも思ったのだ。観察が現象を変化させるなら、そもそもなにかを知ることなどできるのか、と。 アン・マイクルズ「抱擁」(2025) たったの20分で – 諸情報を読み、質問をしたとて – どうやってその人のことを知ることができるのだろうか。それ以上に、わたしは人を見る目がない。人のことがわからない。 「悪い人じゃなさそうですね」 わたしはそんな言葉でなんとかその場をやり過ごしてしまう。そうとしか言いようがないから。 ふと自分のことを思い返す。わたしは人と対話をするとき、相手の話を聴き、それをしばしば要約して問い返すことがある。そうしたプロセスを経ることで、物事を、人を理解しようとする。 しかしその手順は、相手の話を聞いているようでいて、相手を自分の思考の枠の中に押し込めている。わかったつもりになって、理解は、遠ざかるばかりだ。 人は要約できない。してはならない。そんなふうに思う。そして理解とは一体何を意味する言葉なのだろう。さしあたっての了解に過ぎないのではないか。 * 時を重ね、行動を共にし、ようやくその人のことが、わかった気になることもある。でも結局、わかった気がするだけで、実は何もわかっていなかったという瞬間が訪れる時が来る。 そのことだけ、わかってる。 そのことしか、わからない。

  • 20260222 | ルービックキューブ

    土門蘭、絵 寺田マユミ「100年後 あなたも わたしも いない日に」(2017)を読む。 実際わたしはルービックキューブを完成させるのに、どれくらい時間がかかるだろうとおもいたち、測ってみたら1:40だった。ちゃんと勉強してみるかと思い、動かし方を見直してみる。次のことを学ぶ。 1.白を揃えるときの角の入れ方 2.中段の入れ方 調べてみたらまだまだ改善ポイントが多数。というか何も知らなかったな。今年はルービックキューブを練習してみようか。

  • 20260221 | 鴨井玲展

    仕事は午前まで。午後からは自由時間。さてどうしたものかと考えたあと、帰りがけに新大阪から敦賀を経由して金沢へ向かうことにする。 目的は金沢県立美術館で開催されている「没後40年 鴨居玲展 -見えないものを描く- 」を見るため。 随分前に「静止した刻」(1968)という絵が目に留まったことをきっかけに鴨居玲を知った。文字通りの圧倒的な「静止した刻」であった。 1時間半ほど、絵画を眺めた。画家の作品はバラエティに富み、知らなかった画家の一面を見た気がした。実物を見ることができてよかった。画集で満たされる自分もいるが、叶うなら本物を見てみたいと思う。

  • 20260220 | 大阪へ

    大阪へ出張。新幹線の中で、土門蘭「死ぬまで生きる日記」(2023)を読む。 夜は生まれてはじめて屋形船へと連れてって頂く。ただ隣の席の人と話し込み、気がついたら外の景色も見ず、食事もほぼ食べず、すべてが終わっていた。 その後、その日のうちに帰らなくてはならない人を新大阪へと送り、出発まで3人でハイボールを飲む。良い友人ができたような気持ちになり、楽しい夜になった。